セイギノミカタ









左隣は闇金と、ヤの付く自由業な方々の事務所。
真向かいは、ピンサロと雀荘と賭博機の置いてある喫茶店。
隣はカラオケスナックで、調子の外れた演歌がいつも漏れ聞こえてくる。

私の勤める定食屋は、こんな街の一角にひっそりと建っている。

深夜12時を過ぎてから、今日も看板に小さな明かりが灯る。
今日の阪神は一向に打線が奮わず、12対3で大敗。
虎キチである店長は「つまらん!」と一言吐き捨て、
仕込み途中にも関わらず頭に巻いたタオルと腰のエプロンを脱ぎ捨て、
隣のカラオケスナックに消えて行った。

構うことは無い、どうせこの店が忙しくなるのは深夜2時とか3時からなのだ。
それまでに「あっぱれ阪神タイガース」と「生まれたときから虎だった」と
「阪神タイガース酒飲み音頭」を歌いまくって帰って来る。
毎度の事なので、もうすっかり慣れてしまった。

私はカウンターの内側で味噌汁を温める。
キャベツを刻む。
痛みかけて赤い肉汁がジュクジュクした豚肉に卵と小麦粉とパン粉を付ける。

店の隅に設置されたテレビでは三流のお笑いタレントと、巨乳のグラビアアイドルが
下品な声で大袈裟に笑っている。

カウンターの向かいには、一人の男。
今のところ客は彼だけである。
常連さんだ。左隣の、ビルの男。
いわゆる、ヤクザさん的な仕事の男。

彼はむっつりと黙り込んで、じっとテレビに見入っている。

短く刈り上げた髪。
ぎょろりとした両眼の下には、黒々とした隈が目立つ。
筋張った首筋には、ぽっこりと少し大きめの喉仏。
派手なスーツを着た身体は小柄で細身だ。
どう表現したら良いのか判らないが、彼にはどこか不思議な雰囲気が有った。
格好こそ派手なスーツで『いかにも』といった感じなのだが、擦れた印象を抱かせない。

思慮深げな、どこか落ち着いたイメージ。
でも、何を考えているのか皆目見当が付かない様な……。
歳は30手前、きっと私と同じくらいだろう。

「トンカツ定食です」

カウンター越しに膳を差し出すと、彼は目線をテレビから私に移した。

「ああ、ありがとう」

彼は掠れた声で言い、私からそれを受け取ろうと手を伸ばした。
左の手の平には、きつくタオルが巻いてある。
私はその時初めて気付いた。そこに、じっとりと赤い血が滲んでいるのを。

男は私の視線には気付かなかった様で、トンカツにたっぷりとソースをかけ、
白米の上に乗せるとわしわしと掻き込む。
大きな喉仏が、咀嚼する度に動いている。

……私は密かに夢想する。
例えば、彼のそこに唇を押し当てたら?
舌で輪郭をなぞってみたら?
呼吸の度に、唾液を飲み込むたびに、それは微かに動くだろう。
彼はあの掠れた声で、どう呻き何と囁くのだろうか?

カウンターの上を拭くふりをしつつ、彼を横目で盗み見る。
こういった界隈だから、喧嘩はよく有ること。だが……。
暫く迷ったが私は厨房に向かうと、奥に置いてあった救急箱を開いた。
包帯とテープとヨードチンキと脱脂綿を取り出し、カウンターの向かい側へ出る。

男の隣にそれを置いた。
訝しげに、彼は私を見つめる。

「手、見せて」
「……は?」
「見せて。怪我、してるんでしょう」

我ながら酷くぶっきら棒な声だなぁ、とは思った。

「驚いたなぁ。君はいつも無愛想だから、こんな事してくれるなんて思わなかったよ」

最初は渋っていたが、彼は結局私に左手を差し出した。

「私も驚きました。こんなに出血してるのに、何故貴方はここでトンカツなんか食べているんですか?」
「いや、腹減ってたから」
「バカですか?」
「……うん、やっぱり無愛想だね」

苦笑いしている彼だが、時折顔を顰める。
ヨードチンキが染みて痛いのだろう。
無理も無い、それは結構深い傷だった。恐らく刃物で出来たモノ。
滲んだ血をふき取ったティッシュは、傍らにうず高い小山を作ろうとしている。

「君に前から聞きたかったんだけど」

拭いても拭いてもじわじわ湧き出てくる鮮血。
脱脂綿を押し当て、止血しようと悪戦苦闘している私に彼は呑気に聞いてきた。

「君がさ、ここの店長のオンナだってのは、本当?」

「はぁっ!?」

思わず声が裏返った。

「……ちょ、痛い、ピンセット刺さってる!」
「誰がそんな事を!?」
「いや、俺の事務所の同僚とかがそう噂してて」

私が、店長の?
還暦をとうに過ぎていて、禿頭で、メタボリック確定なデカっ腹の、あの店長の女!?

「なんの冗談ですか。想像させないで下さい、軽く悪夢です」

ボソリと呻くと、男は目を丸くした。

「何だ、違ったの」
「違います!」

私の好みは同年代で、細身で、目付きがちょっと鋭い感じの色男です!そう宣言すると男はニヤリと笑った。

「なんだ、じゃ俺は君のタイプになるんじゃない?」
「バカですか?」
「……やっぱり無愛想だね」

即答したつもりだった。動揺がバレていないと良いのだが。その通りなのだ。
細身で目付きが鋭くて、ほぼ同年代らしい。
極めつけは口調がとても柔らかく、ちっともヤクザらしい巻き舌発音では無い。
この男は私の好みに非常に近い。

だからこそ、彼が毎回トンカツ定食とフライ定食しか頼まないのを覚えている。
本来なら厄介ごとに関わるのが嫌で、傷なんて見てみぬふりをするのだろうが、こうして彼の手を取っている。   

そして、こんな話をしようとしている。
あまり人には話した事が無かったのに。

「ここの店長は……私にとっての正義の味方なんです」
「あのおやっさんが?」
「ええ、しかも最強の」

何だ、それ?と言いたげな顔をした男に、私はにっこりと笑いかけた。
その瞬間、彼の顔が真赤に染まる。

「……何か?」
「あ、いや、なんでもない」

男は何かを誤魔化す様に、数回咳払いをした。
私は構わず、話を続ける。

「お客さんは、最強の正義の味方ってなんだと思います?」
「んな事急に聞かれても……ああ、子供の頃は宇宙刑事シリーズとか最高にハマってたよ。
 そうだなぁ、ギャバンかなぁ」

ああそれから、と男はニヤリと口の端を上げて付け加えた。

「俺の名前は立川だ」
「立川、さん」

数回、その言葉を心の中で反芻し唱える。
そうか、彼は立川という名字なのか。

「で、お姉ちゃんの言う最強の正義の味方って何なんだい?」

「アンパンマン、です!」

断言すると、立川はポカンと口を開いた。

「は?アンパン?」

その間抜け面をどこか可愛らしいと思ってしまいつつ、私は昔を思い出す。


アンパンマン。
皆を助ける、お腹が空いた人を助ける、セイギノミカタ。


◇◇◇◇


あのね、立川さん。私数年前までこの店じゃなくて向かいで働いていたんです。
……そう、ピンサロ。
もちろん、今の店じゃないですよ。あそこよく経営者変わるじゃないですか。
私が知ってるだけで、あの店4回名前と内装変わっています。

当時ね、私酷い借金が有ったんです。
母がね……女手一つで私を育ててくれた母が、倒れて。
手術に恐ろしい金額が必要で。
そりゃもう必死で働きました。

いろんな見知らぬ人がね、いっぱい来て。
良い人もいますよ、勿論。でもね、悪い人も居るんです。
確かに、まぁうん――お金は頂いてます。お客様は神様ですよ?
でも、私だってヒトなんですよ、モノじゃないんです。

「親が泣いてるぞ、こんな仕事をしてお前は恥ずかしくないのか」

毎回私を指名しては、そう説教するお客さんがいたり。
でも、自分の目的はきっちり果たして……さんざん聖人君子ぶった事言って。
それで満足して帰って行くんです。
もうバカにすんなって感じですよね、私は親の為にここで働いてるんだって言いたかったですよ、いっそ。

でもね、笑ってニコニコして、聞き流すしかなくって。
なんか同情を買うために嘘言ってるなんて思われるのも癪じゃないですか?

だからいつも仕事が終わって深夜にね、ここで……この店で悔し泣きしてたんです。
この定食屋は、ずーっと昔から有りましたから。

350円の一番安い月見うどん啜りながら……ついでに鼻水啜って。
いつか見てろって。
あのクソッタレの客も、私にこんな災難授けたクソッタレの神様も。
いつか見てろって。

いつかこの状況から抜け出してやる。
いつかこんな場末の定食屋のうどん350円じゃ無くて、もっといいご飯が食べられる様になってやるって。


……でもそのいつかは、来ませんでした。


◇◇◇◇


「はい、こんなもんですかね?」

立川の左手。
その傷にぎゅっと包帯を巻いて、テープで無理やり止める。
またじわじわ血が滲んで来ているが、タオルよりはましだろう。

彼は沈痛な面持ちで溜息を吐いた。

「……そうか、結局君のお袋さんが」

「ええ。あっさり突然死んじゃいました。悲しいのもありましたけど、驚きましたよ。
 お葬式の費用って相当高いんですね」

襲ってきたのは虚脱感だった。
いきなり家族を亡くして、目標を奪われて、貯めていたお金は殆んどが葬式費用に消えた。
そして……。

「でね、給料三ヶ月分を未払いで当時のピンサロ経営者がドロンしちゃったんです」



もう何もかもが嫌になった。
深夜の薄汚れた街。
路上の隅の、吐瀉物。
艶やかな、でもどこか荒んだ表情の着飾った女達。自分の分身。
金を持って、行為だけを求めに来る男。
酔っ払いの歌声。

気がつくと、足はいつもの定食屋に向かっていた。
開店直後の店内。
客は私一人だけだった。

テレビではスポーツニュース。
阪神が延長戦の末、負けたらしい。
禿頭にタオルを巻いた店長が、不機嫌そうにカウンターを磨いていた。ふらふらと、カウンターの一番隅に座った。
何故自分は此処に来たのだろうと、疑問が頭を過ぎった。
お腹なんて空いていないのに。
……母の葬儀以降3週間程、食欲はちっとも沸かなかった。

暫く、俯いたままだったと思う……。時間にしたら5分程だったか。
いきなり、店長が目の前に膳を差し出して着た。
その上には暖かいご飯と、味噌汁と、沢庵2切れが入った小鉢。

「ったく、しけた面してよぉ姉ちゃん」

溜息混じりに、ほら。と膳を受け取る様に促される。

「何か色々あり過ぎて、もう泣く元気も無いってか。いつもはうどん喰いながらびーびー鼻噛んでたっていうのにさ」

おずおずと私が膳を受け取ると、彼はふん、と満足そうに鼻息を漏らした。
そして目線はテレビへ。
スポーツニュースから芸能ゴシップへとコーナーは移り変わっている。

「いいか、先ずは飯を食え」

店長は言った。

辛いこととかな、悲しい事とかな、背負いすぎて重すぎて。
泣く元気も無い、何もする気力が無いって時は、何でも良いから兎に角……。
飯を食え。
なるべく暖かい奴が良い。湯気が立つ様なさ。

腹減ってなくても、食欲が微塵も無くても、人間は最後の最後まで戦わなきゃなんないんだよ。
その為には、生きる為には先ず喰うんだ。

そしたらちっとは元気がでる。
ちょっと気力が出たら、暴れてキレて、物にヤツ当たるのも良い。
ごんごん涙流して、不細工な面して泣くのでも良い。

そうしたら人は疲れる。
疲れたら眠れる。

飯食って、暴れて発散して、寝る。
それが出来たら、お前なんとかなるんだよ。
喰って寝れりゃ、それだけで良いんだ。
だから、そんなしけたこの世の終わりみたいな顔しないで、飯を食え。
これはサービスにしといてやるから。
なぁに、原価にすりゃ50円以下だ。気にするな。

久しぶりに、まともな食べ物を口にした。
味噌汁は、合成調味料の味が素晴らしくする、如何にも安い定食屋のそれだったけど。

口に含んで、喉に流し込むと、なぜだかそこから身体の芯がじわりと暖かくなった。
自然と涙がポロポロ出てきた。
美味しくて、泣けた。

グスグス鼻をすすり上げながら、ゆっくりと食べ出した私を彼はニヤリと笑って横目で見つめて
……その時テレビで昔のドラマが流れ出した。

彼はボリュームを大きくして、それに見入り出す。

古いトレンディードラマ。
店の外からは酔っ払いの喧騒や、どこかからカラオケの音が漏れ聞こえてくる。

私は白米を咀嚼しながら、とてもとても暖かいものに包まれているような錯覚を覚えた。
そして、とてもとても悲しかった。
白米はピカピカしてて、沢庵の舌触りはとても良くて、味噌汁は温かくて。

ほろほろ泣きながら、私は自分が何かに助けられたのだと思った。



「で、その翌週からここで働かせてもらう事になったんです」

カウンターの上の、血まみれのティッシュペーパーや包帯をビニール袋にまとめて押し込む。
アルコールスプレーを噴射し、綺麗に拭き清める。
血液というのは放っておくと雑菌の塊になるから、念入りに。「アンパンマン、かぁ」

立川はそんな私をぼんやりと見つめながら、そう呟いた。

「ええ、アンパンマンです。考えようによっちゃ彼って最強だと思いません?」

カウンターの内側に戻って、救急箱を開き使用したものを所定の位置に戻す。


アンパンマンの作者が、こんな事を語っていた。

昔戦争で、南の島のジャングルを長時間彷徨った。
ろくな食べ物も無くて、水も無くて、そして下手をしたら敵兵と鉢合わせしかねない。

危機的状況の中で、でも欲しかったのは相手を突き殺す銃剣では無く、切れてしまった弾丸でもなく。
一欠けらでも良い、食べ物が欲しかった。
この世で一番辛いのは、飢えなのだ。
生きる為に、戦う為に、人は食べる。食べなくては、何も出来ない。

英雄が居たらなぁと思った。

力で武力で相手を黙らせる英雄では無く、飢えを助ける英雄。
世界の果てまでも飛んで行って、お腹が空いて力が出ない人を助ける、そんな英雄。
僕の顔をお食べよ。
その身を削って、誰かを助ける心優しき英雄。

そんな英雄が、居たらなぁと。


「君にとっては、ここの店長は正にアンパンマンだったんだ」

「ええ、顔も丸いし、そっくりでしょう?」

確かに。と立川は顔をくしゃくしゃにして笑みを浮かべた。
酷く子供っぽい笑顔で、私は再度彼を可愛いなぁと思ってしまった。

「暖かいお茶、もらえるかな?」

「はい」

言われて、古びた薬缶に湯を沸かし緑茶を入れる。
カウンター越しに湯飲みを渡すと、彼は口を尖らせフーフーとお茶を冷ます。

「俺さ、さっき人を刺してきたんだ」

一口それを飲んでから、サラリと立川は言った。
まるで「明日は雨になりそうだ」みたいに、気楽な天気の話をするかの様に。

「……え?」

思わず耳を疑った私に、彼は自嘲的に笑いながら右手で頭をわしわしと掻いた。

「隣町で対立する事務所のヤツに因縁つけられて。単なる小競り合いのつもりだったんだ。
 でも一発殴ってやったら、相手が」

相手がナイフを持ち出してきた。
必死だった。必死に抵抗して、左手を切られて、気が付いたら……。

「そのナイフ、俺がヤツの腹にぶっすり刺していたんだ。
 血がダラダラ地面に落ちて、怖くなってそのまま逃げて……。生きてるかなぁ、あいつ」
目を丸くして言葉を失う私の目の前で、彼は飲み干した湯飲みをカウンターの上に置いた。

「俺はさ、昔から頭は悪いけど腕っ節だけは強くて。気に入らないことは全部殴り倒して来て。
 それで良いんだって思ってて。 でも気が付いたらこうなっちゃってたんだよ。
 あんな事しちゃってさ、組にも迷惑かけるし、もう殺人犯だし……どうしよっかなぁって途方にくれていたら、
 気が付くとこの店の前にいたんだ」
 
立川は椅子から立ち上がった。スーツの皺をポンポンと叩き伸ばす。

「君を見たら、何だか無性に腹が減って来た。今まで混乱していたっていうのに、なんだか安心した。
 俺は……君に、会いたかったのかもしれない」

再びサラリと言われた。でも、彼の顔は少し赤い。

「いつも真夜中にやっている、隣の小さな定食屋の、無愛想なお姉ちゃん。
 ずっと君に話しかけたかったんだ。君がどんな顔をして笑うのか、どんな喋り方をするのか、気になってた。
 喧嘩は上手いのにさ、こういうことは幾つになっても、上手く出来ない」

ご馳走様、と彼は膳を私へと返す。

「……これから、どうするんです?」

声を絞り出して、ようやくそれだけ聞けた。

「うん、組に顔だけ出して、そのまま出頭する。出てきたら……もう少しまともに生きていかなきゃね」

ええと、850円だっけ。と財布を取り出そうとする彼を遮った。

「……いいです、今日はサービスです」

「いいのかい?」

「どうせそのお肉、腐りかけでしたから」

一瞬表情を止めて、次の瞬間彼はクスクス笑い出した。


「それ……ひどいなぁ」

「ええ、だからお気になさらず」

「うん。ありがとう、それじゃ行って来るよ……君と話せて良かった」

差し出された大きな右手を、私は握り返した。

「はい、私もです」

私も、貴方とずっと話してみたかったから。
貴方がどんな顔をして笑うのか、ずっとずっと知りたかったから。

包帯を巻いた左手を店の前で私にヒラヒラ振って。会釈をして顔を上げた時には、立川の姿はもう無かった。

溜息をついて、私は客席の一つにちょこんと腰を降ろす。

これは想いが通じた事になるのか、はたまた失恋になるのか……。
どっちになるのだろう?



「おう、やってるかい?」

隣の雀荘に通い詰めている常連客が入って来た。
私は慌てて立ち上がる。

「いらっしゃいませ」
店長が帰って来たのは、2時を回ったころだった。
店の客席は八割方埋まっている。

「お疲れ」とも「遅くなったな」とも言わず、彼は厨房に入ると直ぐに壁のオーダー表に目をやる。

「どこまでやった?」

「9番テーブルの麻婆丼とニラ玉までです、それ以降の肉うどんから」

「ん」と頷くと、彼はすぐさま頭にタオルを巻き、エプロンを掴む。

「で、何か変わった事は有ったか?」

私はニッコリ笑って答える。

「告白されました」

「ほう、物好きが世の中にゃいるんだな」

「で、失恋しました」

「ふっちまったのかい、可愛そうに」

「いえ、失恋したのは私なんですけど」

店長は中華鍋を壁の棚から下ろしつつ、訝しげに私に視線を投げた。

「……なんだそりゃ?」

「お〜い、瓶ビールまだぁ?」

客席から声がかかり、私は大声を張り上げた。

「はい、今参ります!」


右隣のビルには、ピンサロと雀荘と賭博機の置いてある喫茶店。
左隣は闇金と、ヤの付く自由業な方々の事務所。
真向かいはカラオケスナックで、調子の外れた演歌がいつも漏れ聞こえてくる。

艶やかな衣装の、でも化粧を崩しまくったお姉ちゃんが一人で餃子とビールを煽っている。
カウンターにおっさんが突っ伏して寝ている。
雀荘帰りの客達は、何やら今日の反省会を開いているらしい。
パンチパーマのいかにもなお兄さんが、シーシーと隠しもせず楊枝を使っている。

どんな場所の、どんな人生を歩いている人も。
きっと何かを背負って、何かと戦って生きている。

人は戦っているのだ、何かと。
そして、食べる。
生きるために、食べる。

私はいつかアンパンマンになりたいのだ。
隣で黙々と鍋を振るう、店長の様な。
……誰にも言った事はないのだけど。

お腹が空いて力が出ないのかい?
じゃあ僕の顔をお食べ。

セイギノミカタ。
優しくて、誰よりも強い、セイギノミカタ。


「二名なんだけど、開いてるかな」

「はい、大丈夫ですよ〜」

私の勤める定食屋は、こんな街の一角にひっそりと建っている。
深夜12時を過ぎてから、今日も看板に明かりが灯る。
今日もこの街で生きて頑張る誰かの為に、深夜営業の小さな小さな定食屋。

「いらっしゃいませ!」



END







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