題・耳空きと水銀











サエちゃん、僕はきっときっと帰ってくるから。
待っていて、ずっと。

うん、待っている。
貴方が帰って来るのを、永遠に。


小指を絡めたあの約束。
貴方は遠い南の地へ―――そして。


ぼんやりと瞳を開けた。
どうやらまた随分と昔の夢をみていたらしい。
頭の中に鉛が詰まっているかの様に、鈍い覚醒。
目尻が少し濡れていた。

「誰か、誰かいらっしゃいませんか?」

玄関の方から声がする。
ああ、お客なのか。
私は気だるい身体を布団から起こした。
暖かな布団を放すと、ぞくりと寒気が走る。
また熱が上がってしまったのかもしれない。
本当は起きたくないのだが、夫と書生の寺島君は離れの書斎に居る。
締め切りも近いだろうから、きっと来客の相手をする暇など無いだろう。

私は夜着の上から手早く綿入れのみを羽織り、返事を返した

「はあい、今参ります」

寝乱れていた髪を軽く撫でつけ向かった玄関には、
白衣を纏いつつも頭には鳥打帽というなんとも変わった風貌の男が居た。

「あの……お医者様、ですか?」

男が持って居る大きな真っ黒い鞄も、首から下げた聴診器も、医者らしくはあるのだが
我が家の見知ったかかり付け医、大石先生ではない。
私の訝しげな表情に気付いたのか、男は帽子を取ると軽く頭を下げる。

「あ、はい。奥様でいらっしゃいますか? いつも大石がお世話になっています。
 私、大石の助手している  と申します。
 旦那様から奥様が風邪で伏せっているので往診に来てくれと電話が有ったんですが……」

「まあまぁ、大石先生の。……夫がそんな電話を?」

「ええ。自分は仕事で忙しくて看病出来そうにもないから、ぜひ頼むと」

夫がそんな事を……。
思わず頬が綻びそうになる。
今朝、朝食をよそおいながら「具合が悪いので今日は一日寝ていたい」と伝えると、
仏頂面で「好きにしろ」とだけ言い捨てた癖に。

偏屈で、口下手で、神経質。
夫は物書きの鏡の様な性格だ(勿論悪い意味で)
それでも、時たまこうして判りづらい気遣いをして私を驚かせる。

「でも大石が今日、別用で遠くに居りまして……それで私がこちらに参ったという次第です」

「まあそうだったんですか。どうぞお上がり下さい」

来客室に通すと、その助手は目を丸くした。

「いえいえ、奥様。私は往診に来たのであって……お茶など結構ですから!」

「あら、そうだったわね!」

急須と湯飲みを持ってはたと我に返った。
私は病人で、彼は診察に来た医者なのだ。お茶菓子を出してもてなすのは少し可笑しい。
真赤になった私を、助手はクスクスと笑っている
その声があんまり楽しそうだから、私も思わず一緒になって噴出してしまった。

助手の笑顔はどこか懐かしいモノだった。

寝室に戻り助手の言う通り大人しく布団の中に入った。
まだそこは私の体温が残って暖かく、ほっと全身の気が抜ける感じがする。

差し出された水銀計を口に咥えた。
布団の傍らに座った彼は、鞄の中から薬瓶や注射器等をとりだしながら、
件の楽しそうな声で私に語りかけている。

「最近風邪が流行っているのですよ。大丈夫、そうこじらせる事は有りませんから、
 暖かくして薬を飲めばすぐに良くなります」

口に水銀計が入っているので、首の動きで相槌を返す。

「水銀計、私はよく割ってしまって大石先生に怒られるんですよ。
 中から零れ出る水銀の滴を見たことあります?
 びぃ玉の様にコロコロして光沢が有ってね、凄く可愛らしいのです。
 私は小さい頃それがあんまり美味しそうで口に入れようとして、母にこっ酷く怒られました。
 猛毒ですものね。あんなに美味しそうなのに 、実に残念です……私は昔から水銀計の事に関しては  
 怒られっぱなしですよ」

元来私は人見知りの激しい方なのだが、
彼の話を聞いていると何故だか酷く落ち着いて、眠くなりそうになる。

「さあ、もう良いでしょう」

そう言われ、口中から水銀計を取り出す様に促される。
計りの値を見て、助手は少し眉をしかめた。

「う〜ん、若干高いですね。後で旦那様に言って氷嚢を用意してもらいましょうか」

額に、彼の手があてられた。綺麗な長い指。

「……先生の手、冷たくて気持ちが良いですね。まるで体温が無いみたい」

冷たい感触にうっとりとして呟くと、助手は苦笑いした。

「奥様の体温がとても高いだけですよ。さぁ、コレを飲んで。少し眠りましょうか」

水薬の入った瓶を渡される。
少し舐めてみると、酷く苦い。

「いつも思うのですが、大石先生の薬は少し苦すぎじゃありません?」

口を歪めながらそう言うと、助手はしたり顔で頷いた。

「奥様、こちらに大石本人は居りませんので遠慮する必要はありません。
 少し、ではなく非常に、苦いです。でもその分効きますよ。良薬口に苦し、ですから」

それもそうかと、一息に煽った。あまりの苦さに文通り「苦虫を噛んだ」顔になる。
そんな私を見て助手は満足そうに微笑んだ。

「さて、後は……と」

言いながら助手は鞄からビロードの布に包まれた何かを取り出した。

「先生、それは?」

「耳空きセット、ですよ」

成る程、確かにそこには綿棒や、先にふわふわの白くて丸い綿毛の付いた棒、
大小様々なカギツメを持つ耳掻きが有った。

「さ、奥様。頭をここへ」

ポンポンと膝を叩かれ、私は思わず目を丸くした。

「耳掻きって、ええ!?そんな先生、結構ですよ!」

狼狽して断ると、彼は困ったように首を傾げる。

「風邪の治療の他に、旦那様からもう一つ奥様のご病気を治すようにと頼まれているのですよ、私は」

「もう一つの病気、ですか?」

思いがけない事を言われ、今度は私が首を傾げた。
私はそんな然したる持病は持っていないのだが?

「寝つきが悪い様だと、よく夢にうなされているようだと、旦那様は心配していましたよ?」

思わず口ごもってしまった。



サエちゃん、僕はきっときっと帰ってくるから。
待っていて、ずっと。

うん、待っている。
貴方が帰って来るのを、永遠に。

大好きよ、ユウちゃん。



そんなに、私はあの夢を見ているのだろうか。
隣で寝ている夫が気遣う程に?

昔の事とは言え、別の男の事を想ってうなされ……それを夫に心配される。
それは夫に対する、背徳行為になりはしまいか?

「寝つきが悪い。奥様、私はそれを治す事が出来るのですよ」

にっこりと笑って、助手は自分の膝を再度叩いた。

「さあ、奥様。頭をここへ」

「耳掻き、では無く私は耳空きと呼んでいるのです。耳を掃除して、空ける」

最初は身体を強張らせていた私だが、次第に全身が溶け出しそうに成るほどの心地よさで、
すっかり力が抜けていた。

耳朶に沿って、優しく綿棒が動く。
深くなく、浅くなく。絶妙に耳掻きが中を穿り出す。

助手は非常に耳掻きが上手かった。
いや、本人の言葉を借りるならば耳空き、か。

その心地よさと、先ほどの薬も手伝ってか、私の意識は段々と眠りの中に落ちていきそうになる。


「中の汚れを出すのが単なる耳掻き。私の耳空きは汚れも、
 耳に巣食った言葉も掻き出す事ができるのですよ」

「……言葉も?」

「そう、言葉。耳から離れない言葉、それが無くなれば奥様はきっと楽になれます」



「サエちゃん、僕はきっときっと帰ってくるから。待っていて、ずっと」


ころり、と綺麗な滴が私の耳から零れ出た。
蒼く光沢のある、小さな球体……綺麗なびぃ玉のような、水銀の様な。

そこから先は、きっと夢。
懐かしい悲しい夢。

「夢見が悪いといったね。どんな夢を見るんだい?」

彼は優しく私の耳を掃除している。

「昔の夢よ、約束するの。大好きな貴方と」

「うん、約束したね。きっと帰って来るって」

「私も約束したわ、ずっと待っているって」

小指を絡めたあの約束。
私は貴方のお嫁さんになるんだと思っていた。
成れるものだと、信じて疑わなかった。

届いたのは赤紙。
貴方は遠い南の地へ―――そして。

そして深い深い、海の底へ。
骨すら戻って来なかった。

「約束、破ったね。僕は帰れなかった」

「私だって、守れなかったわ。永遠に待っているって言った癖に」

「仕方ないよ、君は生きて行かなくては。……旦那さん、嫌いかい?」

「………」

それを彼に答えるのは酷な気がした。

偏屈で、口下手で、神経質。
それでも変な所で、判りづらいところで優しい。
不器用で、照れ屋で、意地っ張り。
私の過去も知った上で、妻に迎え入れてくれた。

昔から病弱で、文字を書くしか能が無いんだ俺は。
時たまそう愚痴る。
病弱だったあの人に、召集令状は来なかった。
あの人は死なずに済んだ。
それを……感謝している。

そう、私の夫はあの人なのだ。

貴方を想っていたとしても、貴方はもう居ない人。

「ごめんなさい」

小さく呟いた言葉に、彼は穏やかに頭を振った。

「いいんだ、君が幸せなら僕はそれで良い。辛い思いをさせたね、僕の言葉が君を縛ったね」

サエちゃん、僕はきっときっと帰ってくるから。
待っていて、ずっと。

それが耳に巣食っていた言葉。

「どうするの、掻き出した言葉は?」

「持っていくよ。僕が一緒に持って行く。そう心配する事無いよ、こっちはこっちで楽しくやっているから」

「……ねえ、私も」

私も一緒に、思わずそう言いかけた私の口先を、彼は指で優しく触れて咎めた。

「駄目だよ。あの人は君を大事に想っている。だから、僕は君を連れては行けない」

冷たい指。体温のない指。
彼の身体はひんやりとして気持ちが良い。

「僕の存在は、君にとっては水銀の様なモノなんだよ、きっと」

心の計りが破壊されて零れ出た、綺麗な、美しい物。
……ねぇサエちゃん。
多分生きている人には、辛い事が山ほど有るね。
愛しい過去が増えていくね。
生者は時としてそれに囚われて、過去の幻に足元を掬われそうになる。
だから、あまりそれを心の中に巣食わせてはいけない。

綺麗な、美しい、鮮やかな球体。
それを毎日持ち出して、眺めて慈しんではいけないんだ。

それは毒。鮮やかな、酷い毒。

人の目は、後ろを見つめる様には出来ていないのに。
時間は常に過ぎて、やり直すことなど完璧に不可能なのに。


サエちゃん、僕はきっときっと帰ってくるから。
待っていて、ずっと。

うん、待っている。
貴方が帰って来るのを、永遠に。

大好きよ、ユウちゃん。
うん、僕もサエちゃんが好きだ。



時々で良い。僕の事を思い出してくれるのは時々で良い。
今を生きていかなくてはならないのだから。
だから、持って行くよ。
鮮やかな、眩しい南の海まで。



「冴子、冴子!」

頬をピタピタと堅い指の腹が叩いている。節くれだった……ああこれはペンだこ。

「あな、た?」

ぼんやりと瞼を開けると、心配そうにこちらを見つめる切れ長の瞳と目が有った。

「酷く熟睡していたな。もう起きないかと心配……」

とまで言いかけ、夫は瞬時に顔を真紅に染めて咳払いした。

「ふん、まあ一日よく寝ていたお陰で熱もすっかり下がったみたいじゃないか」

言われて気が付いたのだが、たしかにあの熱を出した時特有の気だるさが薄れている。

「ああ、そういえば晩御飯の支度……いま何時くらいかしら」

慌てて寝床から起き上がろうとして、肩を夫に掴まれた。

「もう済んだから!今日は大人しく寝ていろ!」

「……済んだって、何をお食べになったんです?
 貴方も寺島君もろくにお料理出来ないじゃないですか」

「出前!寿司取った、魚雅から!」

ぶっきらぼうに言い放たれて、眩暈がした。あの美味いが高いお寿司屋さんから?
思わず今月の我が家の出納長を脳内で算出する。
ああ、火の車だ。しかも人が寝込んでいるのに寿司とは……。
我が夫は、優しいのか無神経なのかほとほと理解に苦しむ。

寝室の襖を開けて、書生の寺島君が顔を出した。

奥様、気分はどうですか?」

「ええ、もう大丈夫よ。心配かけてごめんなさいね寺島君」

「お腹すいてます?僕、卵粥作ったのですが……」

「まあ、寺島君が!?」

「僕だってそれくらいは作れますよ、ねぇ先生?」

にやり、と彼は意地悪く笑って夫を横目で見やる。
ふん、と夫は仏頂面になってそっぽを向く。何が有ったの?と視線で寺島君に尋ねた。

「先生ね、奥様の為に俺が粥を作るんだって言って台所に……」

「まあ、貴方が!?」

男児、台所に立ち入るべからず。を頑として掲げる夫が?

「でね、先生ったら米を鍋に入れて、そのまま火にかけたんです。
 水も入れずに!もう粥じゃなくて炭が出来て……」

思わず寺島君と声を上げて笑ってしまった。

「寺島っ!無駄口叩く暇があったらとっとと土鍋に粥入れて持って来い!
 冴子は飯食ってさっさと寝ろ!」

真赤になって怒鳴った夫に、はいはいと笑いながら彼は台所へと足早に去っていった。

「ったく、どいつもこいつも。大石も今日は遠くまで往診があるとかで顔を見せないし」

「あら、でも大石さんの助手がお見えでしたよ?」

白衣に、鳥打帽の、名前は  さん。
言いかけてはたと、思い出した。
その懐かしい名前。
懐かしいあの笑顔、アレは――どうして忘れていたのだろう。彼は……。

「冴子、何を言っている?あいつには助手なんて居ないぞ。それに今日は誰も家に来ていない。
 夢でも見たんじゃないのか?」

思わず、じわりと瞼が熱くなる。


「ええ、そうですね。きっと、夢、を……みたのです」

「お、おいどうした!急に気分が悪くなったのか!?」

いきなり泣き出した私に夫は目を丸くして狼狽し、粥を運んで来た寺島君に

「ちょっと先生、奥様病人なんですよ?なに泣かしてるんですか!」

と攻められ、叫んだ。

「お、俺は何もしていないっ!なぁ、そうだろ冴子?」

私はこのやりとりが可笑しくて、でも悲しくて。
泣きながら笑ってしまった。

それから後、あの夢は見ていない。


「サエちゃん、僕はきっときっと帰ってくるから。待っていて、ずっと」




変わりに、青い綺麗な南海の夢を見る。
私は色鮮やかな熱帯魚になって、珊瑚の森の中に居る。

ぷくぷくと空気の泡が、びぃ玉の様な気泡が空へと上って行くのを見つめている。
それはとてもとても綺麗な世界。
彼は自分が居るのはこんな世界だから、心配するなと、私に伝えに来たのかもしれない。


ねぇユウちゃん、たまに貴方の事を思い出します。
本当に、たまによ?
今を生きていこうと、そう想っています。



END









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