彼は宇宙(そら)へ行く 1


 

 

かなかなかなとヒグラシが静かに鳴いている。
じっとりと暑苦しかった昼間の風が嘘の様に、外から差し込んでくる風は
涼しくて気持ちが良い。
私は濡縁に座って足をプラプラ遊ばせながら、ぼんやりと茜色から濃い藍色へと
変わり行く空を眺めていた。
「ねぇ、網戸閉めてくれない?蚊が入ってきちゃう」
台所から姉の声がかかる。
「どうせなら窓閉めてクーラー点けようよ」
よっこらしょと濡縁から腰を上げ、台所で忙しそうに作業する彼女を覗きながら
提案してみる。

姉は眼鏡を湯気で曇らせながらコンロの前に立ち、大きな鍋の中で泳ぐ鰹節を
網杓子で捕まえていた。
「だめよ、私冷房って苦手なの。電気代もかかるし」
暑い火の傍で作業をし、Tシャツの下のブラのラインがはっきりと分かる位に
汗をかいているくせに、にべも無く断る。
「けちー!」
ぶーっと口を膨らませながら、冷蔵庫の上の扉を開けスイカバーの袋を引っ張りだす。
「あんたねぇ、ご飯の前に甘い物は止めなさいよ」
「だって暑いし、お腹空いたんだもん。ね、ご飯まだ?」
ビリビリと包装を破りスイカバーをしゃぶりながら尋ねると、
姉はやれやれ……と呆れた表情を見せた。
「もぉ、たまには自分で作りなさい。もう子供じゃないんだから」
「子供だもーん、今年いっぱいは成人じゃないもーん!で、今日の晩御飯は何なの?」

ちらりと辺りを見ながら尋ねてみる。
まな板の上には万能ねぎの小口切り、隣にはすり下ろした生姜。
近くのキャスターの上には素麺の束……。成る程、コレはもしかして…。
「冷やし素麺にしようかと思って。あんた食べたがってたでしょ?」
「やっぱりそっかぁ!夏はやっぱり冷素麺だよね〜♪」
大好きなメニューに小躍りしてはた、と気がついた。
昔から姉は食事に対してはもの凄く拘る。4年前に結婚してからは
それに健康志向がプラスされた。
コンビニの弁当や、冷凍食品など添加物の塊だと見向きもしない。
最近ではキューブのコンソメ・粉末状の和風だしの素でさえ極力使わない、
といった徹底ぶりである。
そんな姉であるからして、市販の素麺のツユなど使うわけが無い。
「………お姉ちゃん、もしかして今作っているのって素麺のツユ?」
「そうよ?鰹だしをとって今から味付けするところ。
 美味しくするから楽しみにしていてね」
そう言ってにっこりと笑う姉。
今から味付けして……そして、それを冷やさなきゃいけない訳で…。
「あと何時間かかるんだろうなぁ」
私は苦笑いしてそれに答えた。ご飯の前にスイカバー、あと4、5本は食べられそうだ。


居間に移動し、時間潰しにテレビをぼんやりと眺める。
漫画やテレビゲーム機といった物が姉の家、姉夫妻の家には全く存在せず、
大学の夏休みを利用してこの家に滞在してから5日間、私はかなり暇を持て余していた。

パッパッとチャンネルをザッピングしていく。
今の時間帯はニュースが主らしく、どのチャンネルも郵政がどーたらとか、
芸能人のAとBが結婚したとか、似たようなつまらない話題しか放映していない。
が、とあるチャンネルで私のリモコンを弄る指が止まった。

どうやら最近の話題をフラッシュで送る、みたいなコーナーらしい。
『日本人で10人目の宇宙飛行士が先週金曜日、NASAのスペースシャトルで
 宇宙へ―――』
 
やけに声が高い女性アナウンサーのナレーションが流れ、
画面にはヒョロリと背の高い男性が照れたように笑う姿が映った。
「お姉ちゃーん、お義兄さんテレビに出ているよ?」
台所に声をかけると、菜箸を握ったまま姉が居間へと顔を出す。
「あぁ、本当。
 なんかこんなにテレビに出てると自分の旦那だって信じられないわよねぇ」
じっとテレビを見つめぼそっと呟き、そのまま私の隣へ腰を落ち着けた。
「なんかお義兄さんってやっぱり背ぇ高いね?」
「まぁね、190近くあるし」
「えーそんなにあったっけ?」
言いながら食べかけのスイカバーを姉にひょいと差し出すと
彼女は無言でソレを少しかじる
……あ、チョコ多いとこ喰いやがった。
テレビでは相変わらずキンキン声の女性アナウンサーが喋っている。
『今回は長期に渡る実験が有る為、フライトは4週間と長めですが不安は無いですか?』
照れ笑いの義兄の顔がアップで写る。
元々目の細い柔和な顔立ちなので、微笑むと更にそれが強調される。
結納の席で初めて彼を見た時、なんかキリンっぽい人だと感じたことを
ぼんやり思い出す。
背の高い草食動物。大きくて穏やかな人。
そしてそれは間違いではなく、気性の荒い私の父や(酔っ払うとさらに凄い)
その血を間違いなく受け継いでいる口の悪い姉に何を言われても、
彼は激昂することなくニコニコと……少し困ったような表情で、やはり笑うだけだった。

お陰で姉が結婚してから4年間、この夫婦は特に大きな喧嘩もすることなく
無事に続いている。
おそらく義兄の草食動物のように大人しく、争いを嫌う性格が
それに貢献しているであろう事は間違いない。
ブラウン管の中の義兄はにこやかに質問に答えている。
『いえ不安は皆無です。念願だった宇宙に行けるという高揚感と期待感だけですね』
「うわーカッコイイ事言っちゃってるねぇお義兄さん」
「実際あの人不安なんてないもの。本当に嬉しそうにしちゃってさ」
ぶすっと何かいじけた表情のまま、じっとテレビを見つめる姉。
「お姉ちゃんは心配なんだ?」
私の問いに姉は思いきり首を縦に振る。
「そりゃぁそうよ。事故に合う可能性は恐ろしく高いし、
 宇宙になんか行って欲しくなかった。
彼に何かあったらどうしようって、不安の塊だわ」
「やっぱ夫婦だねぇ、愛されてんなぁお義兄さん」
「ばか」
茶化すような私の言葉に然したる反応もせず、姉は相も変わらずの表情で
テレビ画面の義兄を凝視している。インタヴューはまだ続く。
『スペースシャトルのクルーに選ばれた事についてご家族や周りのご友人の反応は
 如何でしたか?』
『両親、兄弟、妻も私が今回乗組員に選ばれたことを自分の事の様に、
とても喜んでいてくれて頑張ってこいと背中を叩いて送り出してくれました』

とても喜んで送り出した、という顔色では無い姉を横目でちらりと眺めた。
「お姉ちゃんもさ、父さんみたく反対すればよかったのに」
 彼女はテレビから私に視線を移し、深い深いため息を吐く。
「そんな事出来ないわよ。だって仕方ないじゃない?
 あの人にとって今、一番大事なのは――」
あの人にとって一番大事な物は。
姉がそう言いかけた時に、台所でジューッと蒸気の上がる音がした。
「大変っ、火ぃ付きっぱなしだったんだ!」
悲鳴を上げバタバタと台所へ走っていく彼女。
「大丈夫〜?」
私も少し遅れて向かうと、鍋から吹きこぼれが有った様で、
姉はびちゃびちゃになったコンロ付近を拭き片付けている。
「あぁーん。もう一回素麺ツユ作り直しだわぁ」
「……………お疲れ様です」
冷素麺が食べられるのはまだまだ先になりそうだ。
あぁ、お腹がそろそろ限界だというのに。
……やっぱりスイカバーあと4本位食べておこうか。
ビデオを2倍速にしたようなスピードで猛烈に料理を再開する彼女は、
私が再び冷蔵庫からスイカバーを引っ張り出しても
それを注意する余裕もないようだった。
ここに突っ立っていても邪魔になるか、手伝いを命ぜられるかのどちらかだと判断し、
私は居間へと退散することにした。







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