舌の上の背徳2


 

 

私は洗礼さえ受けられない産まれでした。
それどころか、自分がいつ、どこで産まれたのかすら解りません。

私の一番古い記憶は、2歳か3歳の頃です。

凍りつく様に冷たい外気、大気へと溶けて行く自分の真っ白い息、
真っ黒い夜の空から粉雪がひらひらと舞い落ちてくる風景。
まるで一遍の美しい映画のワンシーンのように鮮明に覚えています。

「綺麗だね」
「そうかしら?私はそうは思えないわよ、雪なんて嫌いだわ。
だって寒いじゃない冷たいじゃない」
「う、うん…確かにそうなんだけど」
「ほら、もう眠るわよ。もっとちゃんとくっついて?寒いんだから」

人間社会をピラミッド型で考えてみた場合、私と姉は確実に最下層の人間でした。
親も無く、お金も無く、帰る家も食べる物も無く。

朝起きてから、夜眠るまで全てが路上でした。
夏の暑さを公園の木々の陰で、冬の寒さをどこかの家の軒下で耐え忍んでいました。
お恥ずかしい事に、私は家無き子、乞食だったのです。

姉…私には姉が居ました。
本当に血の繋がった姉なのかは今となっては確かめるすべがありません。
当時5つくらいの姉は幼いながらもとても美しく、私にはちっとも似ていなかったのです。
彼女とは物心つく前から一緒でした。

人が母親の母乳の匂いや体温を安らぎの思い出として心に刻み付けているように、
毎日とぼとぼと当所もなく路から路を歩く生活の中で、
しっかりとつないだ手から伝わる姉の体温。冬の夜、一緒に外套に包まっている時に
感じた温もりと埃まみれの汗の…すこし酸っぱい匂い。

それが私にとっての安らぎの記憶なのです。

私がある程度成長すると、私達は二手に分かれて食料調達を始めました。
街中のゴミ箱を覗き込み、手を付けられそうな残飯を探すのです。

当時の私たちの夢は『お腹がいっぱいになること』でした。

恵まれた子供たちが良く夢想する、キャンディーやケーキを嫌になるほど食べてみたい、
というそんな可愛らしいものではなく…人参の尻尾やパンの耳・腐りかけのジャガイモ、
兎に角何だって良いのです、お腹がいっぱいになれば。

満腹感、という幸せを生まれてこの方、私たちは味わったことがありませんでした。

しかしどんなに探し回っても、いつも一欠けらのパンや野菜くずしか見つからず、
私たちは常にお腹をすかせていました。

ところが、ある日姉が嬉しそうに一斤の真新しい食パンを抱えて帰って来たのです。

「姉さん、どうしたのコレ!?」

私の問いに、姉は胸を張り誇らしげに答えました。

「仕事を始めたのよ、私!そのお金で買ったの。すっごく簡単な仕事よ。
公園や道端に咲いている綺麗な花を摘んで来てね、
『親方』からリボンをもらって花束をこしらえて売るの!
売り上げの一部を親方に渡したら残りの余ったお金は自由につかえるんだって」

当時、街には私達のような乞食の子供が溢れており、
花売りは小さな少女達の最もポピュラーな生活資金稼ぎでした。

明るく社交的な姉はそんな同じ境遇の友達が多く、その中の一人から仕事を
紹介してもらった様でした。

「すごいね!姉さん労働者になったんだ」

私の尊敬の眼差しに、姉は照れたように笑いながら一斤のパンを豪快に半分に
千切り私に差し出しました。

「緊張したわ、お金で買い物するって始めてだったんだもの。
さ、食べよっ!私の初仕事の初成果よ!」

そして私たちは無心にパンにかぶりつきました。

ゴミ箱から漁ったしけっていて、カビの匂いのする…いつも口にするパンとは
何もかもが違っていました。

ふんわりと柔らかい、小麦粉とバターの風味がする始めての本当のパンの味!
あの美味しさを、私は生涯忘れる事はないでしょう。

どんなにお腹を空かせていても、小さな子供が二人です。パンを5分の一程度残し、
私達はお腹一杯になっていました。

「お腹が苦しいねぇ、姉さん」
「うふふ、ほんとね。残しちゃったね」

パンパンに丸くなったお腹を抱え、地べたに寝転がりながら私達は始めての満腹感を
味わっていました。

「この仕事をして、ちゃんとお金が溜まったら…もう一個の夢も叶えられるわ、きっと」

幸せにゲップをしながら、姉は夢見心地で呟きました。
「もう一個の夢?」
「そおよ、あれ?あんたにはまだ話してなかったんだっけ?
新しい、綺麗な服を買うの。真っ白い、フリルの付いたワンピースが良いわ」
「いいね、それ!きっと姉さんに良く似合うよ!」

私はそんな服を着た姉を想像して思わず弾んだ声を出しました。
何しろ、ボロボロの泥まみれの服を着ていても判るくらい可愛い顔立ちをした彼女です。
きっときっと、世界中の誰よりも似合うに違い有りません。

「あんたにはそぉねぇ、吊りズボンと白いシャツ、蝶ネクタイが良いわ」
「僕にも買ってくれるの?」
「勿論よ!そしてね、二人で教会に行くんだわ」
「教会?」
「ええ。きっとそこには私達を探している、お父さんやお母さんもきっと来ているの。
 神様のお家だもの、きっと巡り合わせてくれるに違いないわ。
そんな時にボロボロの服を着てちゃ恥ずかしいでしょ?」
「うん、そうだね!いつか絶対行こうね、姉さん」
指切りを交わして、私達は顔を見合わせ笑いあったのでした。

 思うのです、その時の私は何て無知で、無力で…幸せだったのだろうと。




教会・U   


「思うのです、その時の私は何て無知で、無力で幸せだったのだろうと」
そう、まるで呟くかのように言って男は深く息を吐いた。

 洗礼すら受けていない、とういう男の言葉からクラリスは
ある程度不幸な生い立ちであることは想像していた。
職業上、孤児院の就労やホームレスの炊き出しにもよく参加し、
こういった話には慣れていた筈だった。

だが一対一で、まるで身の内に懇々と静かに語りかけてくるような男の口調には、
何かがこみ上げてくるような感じがある。

「ご両親とは……結局?」
「ええ、会えませんでした。そもそも、生きていたのか死んでいるのかすら
姉自身も気がついた時にはもう家の無い子供だったそうです。
殆ど赤ん坊の私を抱きかかえて、あちらこちらを転々と
本当に姉にはどれだけ感謝しても足りません。
どんなに大変だったでしょう、一人で生きていくのも大変なのに私という足手まといを、
投げ出す事無く育ててくれて」

「慈悲深い、方なんですね
「ええ。本当に優しい、姉でした」

クラリスは男の口調から、ある気配を感じ取り、不吉な予感がしていた。

過去形なのだ、姉の事を語る彼の言葉は。

「両親はきっと自分達を探している。神様がきっときっとなんとかしてくれる。
今思えば、子供らしい可愛い夢ですよね?
でもシスター、姉はそう思わなければ押しつぶされそうだったのでしょう。
生きていくだけで精一杯の、希望も何もない生活に」

男は壁の向こうで小さく、悲しげに笑う。

「あの約束は……お姉さんの夢は叶えられたのでしょうか?」
「新しい服で、教会に、とういう約束ですね?
姉はその夢に向けて毎日頑張っていました。その頑張り方は、労働は、
おそらく神様の意向に反する物でしょう。
しかし、私はそれを罰する権利は誰にも無いと思うのです」

……労働は尊いもので――
「いいえ、いいえ、シスター!決して決してそうとは限らないのです!」

クラリスを遮り、男は叫ぶような勢いで悲痛な声を上げた。

 

 




前へ    次へ









Home   Novel


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送