乗務員は七瀬電気代表の俺を含めて3人。
……まだ30歳にもならないペーペーの新人が何故代表に選ばれたかって?
その理由は実に酷い。
先刻も言ったが、『丙号』は今回が初めての稼動だ。
色々なテストを無事終了したとはいえ、安全面に問題が無いとは言い切れない。
もし、運転中に事故なんかあった日にはこの凄まじい水圧の中だ、確実にお陀仏だろう。
多分、死体すら見つからず、昇天出来ずに深海を彷徨う幽霊の1丁上がりっ!
ってな訳で……「俺が乗ってやる」と名乗り出る奴はほとんどいなかった。
実は極少数だが、自ら行きたいと熱烈に志願した連中も居るには居たのだ。
『乙姫・丙号』の設計を担当し、自分達の作った船に絶対の自信を持つ熟年の主力設計士の皆々様だ。
だが、会社側がOKを出さなかった。
万が一が起こり、彼等に何かあっては困るのだ。ま、要は人材が惜しいって訳。
そこで、設計部に数年勤務していて多少のトラブルには対応出来る、
だけど会社にとってそこまで惜しくない人間
―― つまり俺に白羽の矢が立った。
正直、釈然としなかったけど、俺は会社の命に従う事にした。
……特別手当が出ると聞いていたし。
月々支払う養育費が結構な額で通帳の残高が減る一方なんだよね。
(死んじまったら元も子もないけど、前の嫁さんはしっかり者だから、
恐らくは香奈美が受取人の生命保険の1つや2つ、しっかり俺にかけているに違い無い)
………香奈美の為だ、お父さん、頑張るよ!
小さくて短い梯子を上がり、ベットが2つのみの仮眠室から計測器やPCコードが所狭しと
並べられたメインルームへ移動する。っても『丙号』内はこの2部屋しか無いのだが。
そこでは他の2人の乗務員が熱心に計器からデータを読み取ったり、
何やら難解な数式をPCに打ち込んだりしていた。
と、その内の1人、ショートカットの小柄な少女が俺に気づいて顔を上げる。
「あ、黒江チャン、おっは〜! よく眠れた!? あ、よく眠れたって感じだねっ!
寝癖すっごいよ〜。スーパーサイヤ人、しかもベジータって感じ? にゃははははっ」
「………おはようございます。木々那教授。約1日半寝てないのに元気ですね」
「寝不足でハイテンションってヤツかなぁ?
あっ、でも僕ナチュラルでハイだしねっ☆
それにまだまだ若いから寝不足なんて平気のヘーチャンなのさっ」
そう言って、アラレちゃんの様な大きな黒縁眼鏡の奥の瞳を細め、彼女はニカッと笑う。
口元から歯垢まみれの黄色い犬歯がキラリン。
……歯ぁくらい磨け!
木々那教授こと、木々那栄は今回の「シンカイ12000」計画に関わる人間の中で一番最年少だ。
深海生物の調査の為に、有名大学の研究チームが送り込んできた彼女は弱冠19歳。
海洋生物学界ではその名を知らぬものは居ないとされている有名人だ。
13歳の時にイギリスの大学に超飛び級で進学、光速で博士号を取得。
現在は国内の大学で教授を務める、スーパーが付く天才少女だ。
但し、スーパーが付く変人でもある。
「ふみぃ〜、もう交替の時間かぁ。もう少し観測続けたいんだけどなぁ」
呟いてガシガシと頭を掻く少女。頭部からはハラハラと粉雪の様にフケが舞い、
肩に降り積もる。
黒いセーターなんか着ているからそれが余計目立って仕方ない。
俺は半眼でそれを見やり、思わず溜息をついてしまう。
天才は変わり者が多いと伝え聞く。
彼女も例に漏れず、変だ。おかしい。有り得ない。
木々那教授は何というか……身だしなみに無頓着だった。
風呂は3週間に1回、髪なんかとかさないから鳥の巣みたいに絡まってて皮脂で光っていたりする。
近寄ると……酸っぱい臭いがする。
以前、遠回しにではあるが指摘してみた。が、本人曰く、
「マニアさんが大喜び〜な臭いでしょ? アハッ☆」
――― 改善しようという意志はコレっぽちも無いらしい。
俺は決してキレイ好き、という訳ではない。
部屋だって散らかっているし、3日続けて同じ服を着たりもする。
だが……だが、物には限度ってのがあるだろう!?
今も頭から下ろした彼女の手の爪先にフケがびっしりと入り込んでいるのを見つけてしまい、
全身がチキン肌になる。
ああ……ここが深海で貯水タンクに限りある潜水艇でさえなければ、
今すぐこいつを風呂にブチ込んで洗って……否、それでは俺の手が汚れてしまう。
洗濯機に入れてゴゥンゴゥンと回る水流で洗ってやりたい。
漂白剤たっぷり投入して、勿論、脱水・乾燥までしてやるのだっ!
「……そう出来たらどんなに良いか」
明後日を見詰め夢想する俺の様子に、汚ギャル(死後)もとい、木々那教授は首を傾げた。
「どうしたの、黒江チャン? まだ疲れてるなら、もうちょびっと寝て来たら?」
「あ、別に何でも無いですよ。それより、木々那教授こそ仮眠取って下さい。
潜行から34時間全く寝てないじゃないですか」
俺の言葉に彼女はう〜んと眉間に皺を寄せた。
「だって勿体無いんだよぉ。
酸素残量の問題があるなら仕方無いけどさぁ……調査リミットが3日っていうのは短過ぎるよ。
もし僕が寝ている間に深海生物が現れたらと思うとさぁ……恐くて眠れないんだよ」
「面白い生物が丙号の観測レーダーに掛かったらちゃんと起こしますから、
今は眠って下さい、木々那さん。
後半にバテちゃって調査不可になったらそれこそ勿体無いでしょう?」
諭す様に彼女に語りかけたのは、最後の乗務員、鴫直人教授。
若干の乱れもない白髪混じりの髪と口髭。
丸眼鏡を鼻の上にちょこんと乗せたその上品な姿は、
還暦を過ぎた人生の先輩に使うのは失礼な表現かもしれないが……実に可愛らしい。
和風カーネル・サンダースといった感じの柔和な老紳士だ。
だが、そこは丙号の乗員、ただの可愛らしい老人ではもちろんない。地質学の権威と言われ、石1個から出土地や何年前の物かを言い当ててしまうその道にスペシャリスト。
その知識は化石から宇宙の隕石までと実に幅広い。
元々は種子島宇宙センターに在籍していたとか、この人が石油調査に参加すると聞いたから、
国の機関が「シンカイ12000」に出資したらしい、とか、NASAに顔が利いて月行きのロケット開発に
携わっていたらしい、とかビックな噂がまことしやかに語られているくらい偉い学者さんだ。
そんな人に諭されて、木々那教授はしぶしぶ頷いた。
「ふみぃ……そだねぇ。鴫教授の言う通りだね。
分かった、寝ますよぅ。でも、でも先刻みたいのが通りがかったら起こして下さいねっ?
絶対ですよっ?」
「ハイハイ、絶対に起こしますよ。約束です」
そうにっこり笑って鴫教授は、木々那教授の目の前に小指を出してみせる。
「だから、指きりです」
「うん、約束だね」
木々那教授もにっこり笑い、小指を差し出す。
――― そう、フケの付いたままの指を。
それを見た鴫教授の微笑みがほんの一瞬、凍り付いたのを俺は見逃さなかった。
が、すぐさま元のにこやかな表情に戻り、木々那教授と小指を絡める鴫教授。
「指切りげんまんっ、嘘吐いたら針千本飲〜ますっ☆」
「指切った」
……凄げぇよ、鴫教授。あんた、あんたは本物の漢だよ、紳士の鏡だよっ!
俺は心中で彼に惜しみない拍手を送ったのだった。
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