満月の夜の歌姫12








私はテラスに佇んでいた。

木々の間から満月が顔を覗かせている。
梅雨休み。
雲一つない晴天だ。

ノック音に私は答える。
ティーセットを持っているばあやが入ってきた。
「お嬢様、ここにおいて置きますよ」
テラスには木のテーブルと椅子。
ばあやはテーブルの上に紅茶をセットした。

「あら、ミルク?」
嫌いではないけど、私は基本的にミルクを使用した飲み物をあまり飲まない。
ミルクを入れるという行為が子供っぽく思えるからだ。

些細なレジスタント。
ブラックコーヒーだって澄まして飲んでみせる。

「そうですよ」
ばあやはいたずらっぽく笑った。
ふくよかなばあやは、年をとっても愛らしい表情がよく似合う。
「満月の魔法ですよ」
私も笑った。

昔、ばあやが話してくれたおまじない。
満月の夜、ミルクを紅茶に垂らし、ミルクを三回かき混ぜ願い事を言うと
紅茶の妖精が叶えてくれる、と。


昔、一度だけ、やったことのあるおまじない。

『お父様とお母様と一緒に遊園地に行けますように』

小さい頃、当たり前のように両親に遊びに連れて行ってもらっているクラスメイト達が
羨ましかった。

ばあやに促されるまま、願いを掛けたのだが……結局叶わなかった。
私は、ばあやがお母様やお父様に私の願いを叶えてくれるように頼む姿を見た。
「忙しいから今はだめ」そんな一言で片付けられ、幾度目の苦い涙を味わった。
それからばあやは満月の魔法について言うことはなかった。

もう満月の魔法なんて信じる年じゃないけど……。

「ありがとう」

私はばあやに微笑みかけた。
ばあや一礼し、部屋を出て行った。

私はカップに紅茶を注いだ。
甘い匂いがする。
アッサムだろうか。
アッサムは渋みが少ない飲みやすい紅茶だ。
ミルクティーによく合う。

ミルクを円に零す。

澄んだ紅茶色に白が溶け合う。
私はティースプーンを時計回りに3回かき回した。

「……翼が欲しい……自由な翼が………」

ミルクは紅茶に溶け、紅茶は柔らかな色味となった。

「おいしい……」

気持ちが落ち着く。

いつの間にか、私の口元は綻んでいた。

 

今、私の願い事が
かなうならば 翼がほしい
この背中に 鳥のように
白い翼 つけてください

 

私は携帯を取り出した。

「先生?」

――― 翼が欲しいの。

 

 

 

 

 

私は屋敷を抜け出し、先生の自宅へ向かった。
インターフォンを押す前に玄関のドアが開いた。
室内にいながら足音を聞き分ける……さすがだ。

珍しく今日は手に酒瓶を持っていなかった。

「私以外だったらどうするんですか。一応先生も女性なんですし……」
「一応は余計だよ、一応は」
「一応ではなく戸籍上は、でしたね………キャーーーッ」
可愛くない弟子だね、と眉間を拳でグリグリとえぐられる。
痛いっ、とても痛い。
「ごめんなさいーーーっ」
素直に謝るとようやく攻撃は止んだ。
その隙に部屋に入り込む。
「お邪魔します」
「ほんとお邪魔だよ」
「……………べー」
先生が後ろを向いた隙に舌を出す。
振り返って睨まれたけどそ知らぬフリをする。

………やっぱり先生といる時が一番落ち着く。
構えずに自然体でいられる。
私の殻を壊し、私自身知らなかった自分を引きずり出したのはこの人だし……。
おかげで複雑な葛藤を抱える今があるけどね。

私は広いグランドピアノが二台あるレッスン室兼リビングを抜けて、
入室許可を取り先生のプライベートルームへ入る。

そこでルナとなる準備をする。

今着ているワンピースを脱ぎ、黒いタンクトップとジーンズ、
上に迷彩柄のクシャクシャシャツを羽織る。

肩を覆う長い髪をきっちりと結い上げ、ブルーブラックのボブショートヘアーウィッグを
装着する。

バイオレットのカラーコンタクトを入れる。
アイライナーで目を吊り目に見せる。全体的に顔がきつめに見えるように描き、
唇には赤色をのせる。

苑子を連想させないイメージを作っていく。
最後に鏡の前でチェックをする。

お嬢な苑子の表情を消していく。

笑うと口元が大きく弓の形を描き、目がチャシャ猫のように細まる。
―― 苑子のような微笑はルナには不要だ。

不愉快、怒りの顔。目に炎を宿らせ眉ごと吊り上げる。
―― 苑子の浮かべる能面のような冷笑はルナには物足りない。

 “哀”は……いらない。
ルナにも苑子にも。

これで準備が整った。

「行って来ますっ!」
「苑子!」
マンションを飛び出そうとした足が止まった。
何だろう、と先生を見ると琥珀色の液体の入ったコップを渡された。
「あんたに乾杯」
ふいに涙が出そうになった。
なぜこの人は他人の私に優しくしてくれるんだろう。
この個性的な優しさがいつも私を救ってくれる。

カツン、と澄んだグラスの音。D#だ。

「思う存分楽しんで来な」
「はい」

液体はウーロン茶だった。
ちょっと唇を尖らせると先生は笑った。

「バーカ。あんたにはまだお酒は早いんだよ」

私はウーロン茶を一気に飲み、氷を歯で砕いた。
すべて綺麗に飲み干しグラスを渡す。


「行って来ます!」


今度こそ、私はマンションを飛び出した。

 

 

 

 


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