満月の夜の歌姫4


 

 

「遅かったじゃないの」

「……あ」

あたしは無意識に、あたしと私の中継地点であるマンションにたどり着き、
E1113号室、先生の部屋の前にいた。

マンションの玄関の前で暗証番号を入れ、エレベーターで上がり、
インターフォンを押し……体に染み付いちゃってるなぁ。
何度もあたしがこんなことやっているのが丸分かり。

ビクッとしたあたしを面白そうに見つめる先生。

「恋でもした?」
なわけないでしょ。
「もしかして、最近ようやく結婚適齢期が気になるようになったんですか? 
おめでとうございます」
わざとらしくにっこりと笑って、「ようやく」と「結婚適齢期」を強調してやる。

「……かわいくない弟子だね」
「先生は美人ですけどね……あいたっ!」
思いっきり頭を叩かれた。


……乱暴な先生だなぁ。
せっかく誉めてあげたのに。
まぁ先生が美人だというのは本当のことだけどね。

美人っていうより美形か。
襟足の長いショートカット。
目は切長で、目元がスッキリしている。

薄情そうな唇にほっそりとした輪郭。
よっ、男前!

「何か言いたいことあるのかな?」
「何もないですよ〜」
「それにしては意味深な笑い方をするじゃないの」
「年々被害妄想が激しくなってますね〜」
「弟子の性格が年々捻れていくんだよ」

「先生の教えがいいからですよv」

今日はあたしの勝ち? 思わずニヤリとするけれども……。

「次回のレッスンが楽しみだねー。
優秀な指導者に指導されている生徒なんだから、シェーンベルクの曲を
さぞかしすばらしい解釈をして弾いてくれるんだろうね?」

んげっ! 自分の首を絞めてしまった。

シェーンベルクは近現代の作曲家で無調性音楽を確立した人だ。
白黒二十四の音をある規則にしたがって並べて曲とする。
メロディというよりは音のパズルといった感じで、理解しにくいし、聴かせる方も難しい。
あまりウケよくないのでリサイタルでも滅多に弾かれない、
功績は大きいけれどとてもマイナーな作曲家だ。

それをあっさり出しちゃってさぁ。
#や♭などの臨時記号が、クラゲが大量発生する夏の海みたいに出てきて、
やる気がでないんだって!

一気に夢から現実に返えるあたし。

「帰るよ」

先生が車のキーをチャリチャリ鳴らす。

私はどんな目でそのキーを見ているだろうか?

「苑子」

ルナ存在しないのだ。

 

 


今晩の帰宅は明け方三時。

ベットに入るけどちっとも眠れなくて、六時には起きることにした。

「おはようございます。苑子お嬢様」
「おはよう。濃いコーヒーが欲しいわ」
「何かを食べてからじゃないと胃が荒れますよ。
トーストを焼きますので少しお待ちください」

「わかったわ」           

もう一人のメイドが新聞を渡す。
ということは、もうパパは家を出たのか。

我が家では一番先にパパが新聞を読むことが決まりになっている。
4紙、外国のものを入れると7紙、とても朝の時間だけで消費できるものではない。
これ全部パパは目を通すんだから自分の父親ながら化け物だわ。
私は産經新聞とニューヨークタイムズを流し読みをするぐらいだ。

ちなみに時代が時代なら華族のご令嬢であったママはいっさい新聞を読まない。
起きるのだって、お昼近く、それから、仲良しの奥様方とサロンを開き、
夜は夜でオペラだバレエだって出かけて行く。

まったくいい気なものだわ。
娘にはあれをしなさい、これをしなさい、ってうるさいのにね。

「どうぞ」
「あら、カフェオレは頼んでないわ」
「お嬢様にはこれくらいがいいんです」
私は肩をすくめて、おとなしくミルクたっぷりのカフェオレを口にした。

椿家勤続三十年近くの春子さんには頭があがらない。
春子さんは私のママみたいなものだ。
私を叱ってくれたのも、小さなあのね話を聞いてくれたのも春子さんだけだ。

パパは仕事で忙しいし、ママは付き合いに夢中。
彼女の自慢になることをしたら誉めてくれるんだけどね。
全国模試で30位内に入った、ピアノのコンクールで優勝した、
英語の弁論大会で最優秀賞を取ったって……それが嬉しくて頑張りすぎて
ここまで来てしまった。

いいコでいるのにもう疲れたのにやめることができない。
私はそんな葛藤を抱えるただの女のコでしかないのに、周りは勝手に憧憬し期待する。
それがとても重い。
日本のホテル王と言われる椿の家でなく、普通の家に産まれていたなら……と
考えることもあるけれど、所詮私は私でしかない。

これが私、椿苑子という人間だ。
愛想笑いをして、自分を殺して生きている。
自分勝手に我が道を行くルナとは大違いだ。

一番彼女に憧れているのは私かもしれない。

 

 

 

 

 

 


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