満月の夜の歌姫6


 

 

ドクン、と鼓動が激しくなり、指が止まった。
荒く息を吐く。

「おやおや……。まぁ、最後まで弾けても到底合格点はあげれないけどね」

今はピアノのレッスン中。
なのに、私は集中できないでいる。

「こら、爪を噛まない!」

口から手が離れる。
落ち着かない時、物事が上手くいかない時、爪を噛む癖があることを知っているのは
先生と春子さんぐらいだろう。
子供じゃないんだから、やめなきゃって思っているんだけどね……。
みっともないから、後でヤスリで研ぐようにはしているけど。

「もう一回初めから」
私は溜息とともに指を下ろした。
「……やめた」
先生はそんな私の態度にそっぽ向いてしまった。
「やる気がない生徒を見るほど、私はヒマじゃないんだ」
「ごめんなさい」
私を見る先生の目は氷のように冷たい。
そりゃそうだ。音楽を愛している人なら、あんな態度でピアノを弾かれたら誰でも怒るだろう。
もう散々だ。

私のレッスンは、バッハの平均律、古典のソナタ、ショパンのエチュードと進んでいく。
これに、他のエチュードや近現代の曲が入ったりする時もあって、こなすのが大変だ。
鬼、とかつい思っちゃうけど、期待しているからそれだけのことをさせるのだ、
と思えば誇らしい。
だけど、今日はほんと、最低。
バッハの平均律で止まってしまっている。
バッハはとても古い音楽家だ。
だけど、芸術には新旧関係なく、その音楽はとても高度だ。
伴奏があってメロディがある曲とは違い、幾つもの歌が絡まりあうようにして曲ができている。
それぞれのメロディを意識しつつ、聴かせるべき旋律を読み取り浮き上がらせ
弾かなければならない。
なのに、私はそのすべてを無視して弾いてしまった。
それ以前に自分の弾いている音が全然耳に入ってこない。
私は途方にくれてしまった。

「何泣きそうな顔してるんだ」
うにゅーとほっぺを掴まれて伸ばされる。
「いひゃい……」
「ほらほら、吐け、吐いてみろ」
「う〜〜〜!」
観念した。

あの男の音が耳から離れない。
忘れられない。

『あんたは絶対癖になる。……世界一番気持いいことをしようぜ』

神経に障るほど自信過剰な男だ。

だけど、男の言うとおり、アレはとても気持ちいいことだった。
男のギターの音に乗って、イメージの世界が広がる。
飛べ立てそうだった。
この夜空を突き抜けて、どこまでも。
癖になる、というより、中毒だ。極上で最悪な麻薬。

「あんたは自分の世界が壊れるのが怖いんだね」
私は頷いた。
この感情は、「恐れ」だ。
足元がグラついて、何もかもが崩れていきそうな肥大な不安感。

「どうしたい?」
「歌いたい」
なんてシンプルな言葉。
「だったら歌えばいいじゃないの」
「ルナなんていない……」

ルナっていう人間なんて存在していないのだ。
苑子という女が演じているだけ。
苑子には歌なんて不要だ。
それよりもこなさなきゃいけない、学業、お稽古事。

「優等生は面倒くさいねぇ」
「……………」
「考えるのはやめな。別にそいつの音楽が鳴るなら鳴らせておけばいい」
「うるさいんです」
「気にしているからだろ? 
 反対の行動を取ると、反対のことになるんだ。面白いよなー、人間って。
 天邪鬼というかなんていうか……。
 まっ、流れに任せればいいんだよ。何も考えないで感じるままに動けばいい」

先生のいうことは、あまり納得できなかった。
そんなことしたら、私はどうなるのだろう。

だけど、聞いてもらったおかげで気持ちは落ち着いた。

「じゃ、初めから……」

今度は上手く弾けそうだ。











男の伴奏に合わせて歌う時間は、あっという間に過ぎていく。
そろそろ時間がやばいかも……。
歌うのをやめたあたしに合わせてギターの音もやむ。
先ほどまでの音の嵐がやんだ。
この時間が終ってしまう、そのことが口惜しい。
あたしは小さく舌打ちした。
認めよう、私はこの男と歌ってみたい。

だけど、
危険危険危険危険危険 ――
そのシグナルを無視する気はなかった。

気持ちよかっただろ?
同意を求める男の眼差しを無視した。

「……帰る」
「送っていく」
「ストーカーになりそうだからやだ」
男は首を竦めた。
「言うねぇ……ちょっと待てよ」
男はギターケースに入れていつも持ち歩いているらしい五線譜を取り出した。
ペンで殴り書きをする。
意外に字はきれいだ……じゃなくて。

『6月XX日PM7:00 吉祥寺GYAGYAHOUSE 音一筋 ワンマンライブ!!
 ルナ様へあなたの下僕エイより特別無料招待券』

「何だよ、これは」
「今日から2週間後、吉祥寺でライブする。音一筋っていうのがバンド名。いいだろ?」
「あんたが決めただろ……」
「あ、分かる? すばらしいセンスだろ」
「……だせぇ」
そんな名前付けるのはあんたぐらいだと思ったんだよ。
音楽は期待できるけど、歌詞はやばそうだな。
音楽と歌詞、両方合わさって初めていい歌曲ができる。
他のメンバーに才能があることを祈ってやるよ。……一応もったいないからな。

男は無料招待券に自分のサインを入れて、わざわざハート形に折りたたんであたしに渡した。

「俺の愛だ」
「……………」
あたしは迷わず地面に捨てた。
「ひでぇ! 俺様のサイン入りプレミア招待券が〜〜〜! もったいないだろ!」
「全然」
「……もらってください」
一応受け取った。

「………行かないからな」
「いいや、あんたは来るよ」
「絶対行かねぇ」
「来るさ。あんたと俺の出会いは運命だからな」
しゃあしゃあと言う男に呆れてしまう。
「くせぇ台詞。それは未来の恋人にでもいいな」
「俺の恋人は音楽なんでね。だから、その使者のあんたは恋人のようなものだ」
「あんたの恋人になる奴は可哀想だな」
「それでいいって言うんだからいいんだろ」
ああ恋人はいるわけか。
こんな男に惚れているなんて、すっげぇ不幸な女だな。

その最低男は熱を孕んだ眼差しで私を見つめる。

「絶対捕まえてやる……」
「バーーーカ!」

今度こそ捕まらないようにあたしは夜を駆け抜けた。



 

 

 

 


前へ    次へ







Home   Novel


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送